関西現代俳句協会

2006年6月のエッセイ

医師の盥廻し               福田 基

  最近、ヘリコバクター・ピロリ菌によって十二指腸潰瘍にかかり暫く臥っていた。このユニークなピロリチャン、いたって悪質なようだ。ぼくは、つねに原因を追究するタイプゆえ、その病のルーツを探っていた。どうも持病の膠原病の腰痛を癒す鎮痛剤がピロリチャンの繁殖を誘発したようだ。

  ところで、現代の医者というか医師がそれぞれの専門分野に分轄されているようだ。 古くから「盥廻し」という言葉があるが、その原因は腰痛からはじまった。外科は腰痛を癒すため、ステロイドとボルタレンだ。それはいいのだが歯槽膿漏で歯科にいくとポンタールだ。そして風邪で内科にゆくとロキソニンだ。ぼくが薬名を掲げている、ステロイド、ポルタレン、ポンタール、ロキソニン、この四種を飲むと、大いに喜々とするのがピロリチャンだ。

  ぼくは医師を信用しない訳ではないが、高価な薬剤辞典を傍らに置いてある。つまり、その内容を調べてしか飲まない。そのぼくがポルタレンによってピロリチャンを喜ばすとは、つくづく痛みは辛抱だということがわかった。

  それはいいのだが、今日の医師は自身の得意な分野しか診察せず、あとは紹介状だ。その例が近くの開業医が小児科の看板を外した。それは儲からないのと、誤診による訴訟を怖れてだ。加えて、精神的なケアーもなく機械化し、毎日、紹介状に明け暮れているようだ。だから医師の盥回しがが起こる。その盥回しは責任逃れといっていいだろう。これも私事だが膠原病治療のため某大手病院に入院した。その医師たちは一病を治すため尽力を傾ける。それがステロイドの大量投与であり、腰痛は少しはよくなったのだが、急にテレビが見えなくなった。それはステロイドによる糖尿病だ。医師の高度な専門化はいいのだが人間という身体に対して医師がどのように考えているのか問いたい気分になってくる。確かに医師にとっては人間も<もの>の一つに違いないし、ぼくとて<もの>の一つとして理解しているつもりだ。なかには死んでも医者にかからないという人を知っているが、それが正しいのかも知れない。キルケゴールではないが、所詮、人々は『死に至る病』によって死ぬのだ。

 そこでよく考えてみた。医師とて特異な人間ではない。心理学を専攻したぼくとて、人々のこころがわかる訳がないからだ。それはそうだろう。小学校の理科の実験で蛙を幾匹解剖したであろうか。それは蛙という生物の精神よりも<もの>としての実験だ。解剖医が人間の精神を手術しているとなれば、畏怖を感じてメスが滞るだろう。心臓も肝臓も腎臓も意思のない一つの<もの>だ。それにしても人間にはいくつの細胞<

もの>があるのだろうか。それらは、いずれ齢と共に退化していくものなのだ。

 考えてみれば、人々は生れたときから死に向かっていることだけは確かだ。そして思った痛みも苦しみも哀しみも個々の持つ人生のカテゴリーとなれば、ピロリチャン仲良くしようぜといいたい。膠原病の痛みも仲良くすれば、自ら楽になるだろう。そして思う。多病でありながら、平均寿命まで生きたとすれば、病気を知らない人たちよりも、より多くの経験があるということだ。それをありがたいと思うことにした。つと、医師の盥廻しから病気とは仲良く付き合うものだとしみじみ感じた。昔、悟を開いたと言われている釈迦牟尼とて食中毒の下痢に苦しみ逝ったではないか。山頭火のコロリが死ぬときの理想だが、皆がみなそうはいかない。死ぬまで苦しみながら生きねばならないのがファタリティ(宿命)だとすれば、医師の盥廻しは避けたいと思う。

 仲良くしようぜ、ピロリチャン、ニカワチャン。そうだ、ぼくにはまだ暫く時間という<もの>がある。ありがたいことだ。

以上

(本文及び俳句の表現で、ふりがな表示が括弧書きになっているのは、インターネット・システムの制約のためです。ご了解ください・・・事務局)