2006年12月のエッセイ「牡丹焚き」外山安龍今年は秋が長いと油断していたら、立冬の日の大風を境に寒気が押し寄せて来た。夜、帰り道、大きく息を吸うと、澄んだ冷たい空気が肺にまでしみて来る。そんな日が何日か続くと、あの牡丹焚きのことがなつかしく思い出される。 牡丹好きの人は多いと思うが、私もよく長谷寺に詣でる。そして一日堪能する。その美しい花を支える枝もやがては枯れてしまう。その枯れ木を集めて、初冬に、その年の牡丹供養の意を込めて焚くのである。 私の属している「半夜」の人たちと当麻の里、石光寺を訪ねたのは、2年前の12月初めであった。ほかの吟行と違い、少しひきしまった気持ちで、 穂薄の野道を抜け、冬菊の咲く畦道を歩いて行ったのを覚えている。以下、当日の模様を報告する。 染寺の庭の一隅榾組んで 外山安龍 牡丹焚き軽口すっと消えにけり 〃 綿虫の一瞬視線集めけり 〃 誰となく火の色愛でて牡丹焚く 〃 牡丹焚き色の限りを尽くしけり 〃 牡丹焚き花の面影ふっと立ち 〃 牡丹焚きいきほひセーブする男 〃 牡丹焚き時計回りに煙たがる 〃 牡丹焚き煩悩一つ燃やしゐて 〃 一ト年のあれこれ見ゆる牡丹焚き 〃 写メールの如く即吟牡丹焚く 〃 牡丹焚き陰りて残る白き灰 〃 牡丹焚き終へて雄岳の暮れ残る 〃 1メートル四方にも満たない焚き火を2時間近くも見つめ続けさせたものは何なのだろう。今もしみじみとなつかしく思うのはなぜなのだろうと、ふと思う。中西進氏は「日本人の忘れもの」という本の中で、なつかしい、とは、本来、自分の経験を超えて、今の自分を自分たらしめているもの出会った時に、わき起こる感情を表す言葉であると述べているのだが。 これから毎年ということであったが、あれ以来訪ねては居ない。もう一度と思う気持ちもやまやまだが、しかし、野辺の送りにも似た気持ちをそうそう味わいたくないというのも、また本音である。牡丹焚きは吟行というには、あまりにも心身のエネルギーを費やし、魂をも引き込んでしまう業である。 追伸の一句に替へて寒牡丹 外山安龍 以上
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