関西現代俳句協会

2007年 11月のエッセイ

「建物を壊す、ということ」

             中田美子

 大阪のフェスティバルホールが建て替えられるそうである。計画では、2009年に解体工事が始まり、2013年に高層ビルとして生まれ変わるという。じつはこの計画に、自分でもちょっとびっくりするぐらいショックを受けている。

 日ごろ「外国のコンサートホールや歌劇場に比べて趣がない」などとさんざん文句を言っていたのに、いざ解体されると聞くと寂しい。考えてみれば、大阪で生まれ育った私にとっては、あのホールは初めて行ったコンサート、初めて観たバレエ、初めてのオペラ‥・・とにかく思い出がいっぱいの場所なのだった。

  確かに、フェスティバルホールは古い。オペラやバレエも上演できる最新設備のホールがほしい、という関係者の気持ちも、観客としてよくわかる。ロビ一だって、幕間にゆったりとおしゃべりができる、イマドキのホワイエには程遠いし、いざというときの耐震とかバリアフリ一なんかの配慮も、新しいホールに比べれば見劣りするのかもしれないと思う。

 いろいろな公演を体験をした人たちの思い出が詰まっている、といっても、パリのオペラ座やミラノ・スカラ座、ウィーン国立歌劇場級の、かつてワーグナーやストラビンスキーがここに立って、みたいな「歴史的迫力」には欠ける。これから老朽化したホールになっていけば、やっぱり利用されなくなっていくだろう。だからこんな風に惜しむのは、感傷的と言われればその通りだ。こんなことを書いている私だって、実際、ホールが新しくなれば、それはそれ、喜んでそこを利用するに違いないのだから。

 それでもこんな風にこだわってしまうのは、たぶん数年前、千里の万博公園にあった国立国際美術館が移転した時のことを思い出してしまうからだ。ずっと千里山に住んでいたので、広々とした公園の中の、ガラス張りの建物は子供のころから知っていた。その美術館の、日の光がたくさん差し込むホールには、ミロの巨大な陶板画があって、子供心にとても印象的だった。新しくできた中之島の美術館は便利で利用しやすいけれど、ミロは地下に置かれていて、なんだか悲しかった。

 どうしても古いホールを建て直す、というのなら、今度は、ほれぼれするような美しい建物にしてほしい。百年先、二百年先に設備がどうしようもなくなっても、だれも壊そうなんて思わないくらいに。建物のためだけでなく、その空間で、奇跡のような瞬間を作り出すであろう、芸術家たちのためにも。

以上

          

 ( 例月の本文及び俳句の表現で、ふりがな表示が括弧書きになっているのは、インターネット・システムの制約のためです。ご了解ください・・・事務局)