2008年 1月のエッセイ 「卓袱台」梶山千鶴子人生の半分を京都の西陣で過ごした。 家族は祖父と両親と独りっ子の私の四人暮らしで家業は質屋だった。定休日以外は大方皆家に居た。 子供の頃、円い卓袱台で家族揃って食事をした。脚は折り畳み式だった。日常は台所の隅の押入れに立ててあったので場所をとらなかった。 卓袱台の真中に四角い穴があって嵌め込みになっていた。すき焼きや湯豆腐の時は嵌め込みの四角い板を外して焜炉を置いた。月に何度か日を決めてすき焼きをしたが私は祖父と母の間に坐って向い側には父が居た。小鉢に生卵を割るときは皆の視線が私の手許に集まった。父と祖父との会話は少なくていつも私が独り喋りをしていた。時々母から「黙って食べなさい。」と小言が来た。 昭和十二年に祖父が喘息で亡くなり、昭和十五年に母が結核で亡くなった。結局父と二人きりになった。戦争もだんだん苛烈になり、卓袱台の存在も忘れていた。そして団欒という言葉さえ失ってしまった。 周囲の環境も生活自体すっかり変わってしまって“欲しがりません。勝つまでは。”と各自の心に誓いながらの毎日だった。 終戦の日は父と二人一日中無言だった。古いラジオから陛下のお言葉を聞いて涙が止まらなかった。急に肩から力が抜けていった。 その後父の勇気ある判断で一人娘でしかも父一人子一人なのに嫁いでしまった。 世間知らずの私に人生は教科書通りには行かないもので親孝行もせぬうちに父は亡くなった。伊吹山の登山中のことだった。 結婚後予期せぬことが様々おこり、結局子宝には恵まれず、元来男勝りの性格から仕事一途の人生を歩むことになった。 ふとした御縁で俳句を学ぶことになった。先づ“京鹿子”に入門してすぐ丸山海道先生から“咲耶”の俳号をいただいた。鈴鹿野風呂先生御一門の方々と壱岐・対馬へ吟行したときの思い出は今もなつかしい。 その後いろいろあって多田裕計先生の“れもん”に入り、浪漫主義俳句を学んだ。 師匠に恵まれ、友人に労わられつつ、日頃の様々な苦悩から脱却した。 そして姑も夫も亡くなって二十数年になり、西陣から下鴨へ引越して来てほゞ四十年になる。 家の蹲踞は、家紋を象った蛇の目。そして時無しに水が溢れている。 生活もほとんど洋式となり、モダンな食卓。時代は変わった。ひっそりと一人の餉を楽しみながら私はいつまでも子供の頃の卓袱台が忘れられない。 以上 (例月の本文及び俳句の表現で、ふりがな表示が括弧書きになっているのは、インターネット・システムの制約のためです。ご了解ください・・・事務局) |