2010年 1月のエッセイ 「冬至の太陽」和田 悟朗平成七年一月の神戸淡路大震災で全壊という被害に遭ったとき、神戸もいいけど、この際どこか風土の違った地に住んでみたいと思った。あの時は無一物という気軽さからぶらぶらと歩き回った末、生駒山の東、むかしは長髄彦が住んでいたといわれるこの地に住居を定めてしまった。 空気が澄みきっていること、二階のベランダからは生駒山の向うに二上山や葛城山が見え、夜は星が鮮やかなこと、そして太陽が東の矢田丘陵から昇り西の生駒の峰に沈むまで、太陽を遮るものは何もなかった。 しかし土地開発とはおそろしいもので、今や太陽は南に並ぶ家の屋根から昇り、そして季節によっては西方の峰に又はどこかの家に沈むようになった。 ところで、ぼくが楽しく思うのは、毎年の冬至に近いころの正午の太陽だ。ここは北緯34.7度だから、正午の太陽の高さは、90-(34.7+23.5)÷32、つまり約30度というわけで、南側の部屋の奥深くまで日が射すのである。実際、窓の高さの二倍近く奥まで光が当る。そのときぼくはゆっくり動いてゆく畳の上の物影をまるで生き物のように追う。 天網恢恢冬至の光射す畳 悟朗 今から四十五年ほど昔、ぼくは北緯45度のミネアポリスに住んでいた。日本では稚内ほどの緯度だ。そこは十月には雪が降り始め、冬至の日やクリスマスは真白の雪世界。太陽は最も高い正午ごろでも20度そこそこしか上がらない。車を運転すると低い太陽がつねに夕焼のように眩しくて、いつも黒いサングラスが必要であった。氷結した広大な湖の上を、ハンドルもブレーキもアクセルも思うようには効かないまま無謀運転するのは楽しかった。 そのような季節、大学の小さな研究室では正午ごろには部屋の奥の壁にまで日が射した。 ぼくは近頃、住居から少し離れたある地点を定点観測地と決め、一年を通じ太陽が生駒山に沈む瞬間をそこから眺めている。その地点はある幼稚園のすぐ横の高台で、この地点からは生駒山の北端から南端まで全貌が眺められるという場所だ。 観測によると、太陽の日没地点は一年間に南北に著しく変化の幅が広い。春分、秋分のころは正しく真西に、生駒山の最も高いところあたりに沈むのだが、反対に、冬至ともなると、ずっと南の暗峠(くらがりとうげ)のあたりに沈んでゆく。その方向は大阪の八尾の方向だろう。一方、夏至ではずっと北寄り、生駒山が低くなった北端付近に沈むのを目撃した。その向こうは、四条畷か交野ではないか。 この幅の広さは、もちろん、太陽のせいではなく地球の公転が原因だ。ある夏至の日、通りかかったおばさんに、見てごらん、冬至になったらあちらの方に日が沈むんだよ、と言ったら、うそー! お日さんはいつでもあそこに決まっているよ、と信じてくれなかった。 ぼくは静かに地球の声を聞いた。 夏至ゆうべ地軸の軋む音すこし 悟朗 以上
◆「冬至の太陽」 (とうじのたいよう) : 和田 悟朗 (わだ ごろう)◆ |