2010年9月のエッセイ腎臓移植的場 秀恭 もう十八年も前のことになるが、猛暑の七月初旬、私は腎臓移植の手術を受けた。回復期に向かっての八月一日、病院の屋上から眺めたPLランドの花火は生涯忘れることができない。 人工透析をやむなくされてから、二年四カ月、月水金の朝十時から四時間、正月であろうと祝日であろうと、とにかくその日は完全に束縛され、それこそ雨の日も風の日もクリニックに通いつめた。時には血圧が下がってめまいがしたり、戻しそうになる。それでも透析を受けなければ死ぬ。何しろ腎不全のため尿がほとんど、いや、全くと言っていいほど出ないのだから。透析時に溜った水分と毒素を血液中から抜いてもらうわけである。この作業を中止できるのは死を迎える時だけである。運命とはいいながら、時には耐えきれぬ絶望感に陥ったことが何度もある。 そんなある日、突然、本当に突然に病院から電話がかかってきた。 「腎移植を希望されていますが、ただいまドナー(臓器提供者)がおられます。移植を受けられますか」 私にとっては全く寝耳に水である。思わず「本当ですか」と身震いしながら叫んだ。 早速病院に駆けつけると、適合者が六人おられる。数多くの希望者の中から、ここにいる六人が最もドナーの細胞組織に近い状況だという。健康な人には二つの腎臓がある。この六人の中の二人(人は一つの腎臓で生きられる)が最終的に選ばれる。さらに精密検査の結果を待たねばならない。しかし最も辛かったのは、私より長く透析を続け、さらに、私より年若い人が五人そばにおられることだった。 同じ苦しみを味わい、死と対決している者同士、その時の気持ちは誠に複雑で、我が身を神に託す以外はないと観念したことを今も忘れない。 幸運は私に味方したのか、とにかく私は選ばれた。しかし、移植が決まれば決まったで、また慌しい状態の連続である。すぐに入院することになった。
その夕刻六時に手術は開始された。不安であったが、救いは担当の医師がこの道のオーソリティで、いたって平静に「心配いらない」を連発して下さったことである。手術は四時間で終わり、麻酔が覚めたのは夜の十二時であった。七月二日、梅雨の最中、家族に見守られて手術室から無菌室に運ばれた。
傷の痛みはなんとか我慢ができた。授かった臓器が自分の体内にあるのだから、これくらいの辛棒は仕方がない。
苦労はそれから始まった。最も気遣われるのは拒絶反応である。それを防ぐためにかなりの量の免疫抑制剤を使用している。首の右側からの絶え間なき点滴、右の腹部から手術中の古い血液を出す管、さらに尿管をベッドの左下へ吊す。自由になるのは左腕くらいなものである。明けても暮れても身動きのできない状態で二十日間程を過ごした。ただ天井を見つめて。
そうでなくても孤独が苦手な私は、この面会謝絶の毎日がつらかった。そんな時、私は無意識のうちに一人呟いた。「腎臓が正常になったのだ」「小便が出るんだ」 お陰で心配した拒絶反応も出ないまま、約五十日の入院生活のあと無事退院が許された。それ以後、もう十八年になる。 自分の健康状態にはかなり気を遣っているが、以前のように元気に、ささやかながら夢のある生活を送ることができている。これも偏に神の恵みと、心優しきドナー、さらにいろいろな人の助けがあってのことと感謝の毎日である。
(以上) ◆「腎臓移植」 (じんぞういしょく) : 的場 秀恭 (まとば ひでやす)◆ |
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