2010年12月のエッセイ袷弓削 季也 袷着て余る命と思ひをり 村山 古郷 花道の先真つ暗や初袷 火箱 游歩 袷を歳時記で見ると、夏の季語で初袷、古袷、素袷などが挙げられている。両句とも発想の原点は同じと考えられる。当然、作者は夏を感じて作られたものだ。しかし、現在では夏に袷を着ないので、これらの句に疑問を感じるのである。 現代きもの用語事典によれば、「単衣に対して裏をつけて仕立てた着物をいう。単衣を着る暖かい時期以外は袷が用いられる」と。また被服学辞典によれば「裏付きの和服。一般的には裏をつけた長着を指すが、羽織、コート、半てんなどにも袷がある。袷は防寒が主目的のため着用期間は十月頃から五月頃までとなる」と記している。その他の服飾関係をひもといてみても、袷を夏に着る記載は皆無であった。 殆んどの歳時記は夏の部に掲載され、その解説も、あわせきぬ(合衣)の意、単衣に対して用いられる名称、裏をつけて仕立てた着物と記されている。ある歳時記は「夏は袷をあまり着ない。袷の感覚は冬か春」と記してあるにも拘わらず、夏の季語として収録している。また女性の編者になる歳時記は「裏地の付いた夏用の着物」と記している。最近の女性は余り着物を着ないのだろう。現代俳句歳時記では、さすがに袷は夏の季語から削除されている。 袷着て唐招提寺まで来たり 松根 東洋城 真っ向に比叡明るき袷かな 五十嵐 播水 角川文庫の俳句歳時記夏の部に掲載されている句であるが、両句とも秋または初冬の季節を感じるのだが、如何なものだろうか。では何故袷は夏なのだろうか。袷が夏になった経緯を知りたいものだ。色々と服飾史などの文献を調べてみたが、明らかではない。私の拙い推理から仮説を立ててみた。 室町時代、庶民の服装とくに遊女の衣裳が現在でいうファッションの発信基地となった。その後、安土・桃山から江戸時代にかけて遊女たちの風俗が時代の流行の源となっていく。着物の肌着を襦袢というが、これは直接肌につけて汗や垢をとる肌襦袢として用いられていた。角川書店編の歳時記に、夏の季語として素袷というのがあり、「素袷は襦袢なしで肌にぢかにつけることで商売女などが慣用し、何となくだらしない」と解説している。本来、下着としての肌襦袢を取り去り、単衣に裏をつけることにより(袷)汗や垢をとる襦袢の役目を果たそうとした、遊女ならではの発想が夏の袷として、江戸時代の歳時記に載ったのではないかと思われる。 袷は、浴衣のような単衣に対して、裏地をつけて仕立てた着物をいい綿抜とも言っている。冬の季語である綿入れは袷にわたを入れたものである。すなわち、綿入(冬)、綿抜・袷(春、秋)、そして裏のない一重の着物、単衣(夏)と着物の四季が表現される。 ねむごろに友と逢ふ日の春袷 浜田 菊代 八掛の色のちらりと秋袷 辻 桃子 季語として袷を用いる場合、揚句のように季節を入れて表現する必要がある。袷だけで夏の季語をあらわすのはおかしい。 京都西陣の着物関係の人が「袷の季節になったので着物を着ようと思います」という問いに対して「現代では着物は袷しか持っていない人も少なくありません。暑いのに無理に袷を着るのではなく単衣では冷える感じがしてから取り出す袷にしたいものです」と答えている。やはり袷は夏のものではないということであろう。 初袷流離の膝をまじへけり 飯田 蛇笏 私も夏、袷を着てどこか遠くへさまよい歩いてみよう。旅先でうちとけて十分に話し合えるだろう。汗をかきながら。 (以上) ◆ 「袷」(あわせ) : 弓削 季也 (ゆげ としや) ◆ |
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