関西現代俳句協会

2011年6月のエッセイ

新聞人と俳句

藤本 晉

 新聞社を退いて、しばらく経った頃、ある俳人から一冊の句集を贈られた。「虚吼句集」(今井妙子編著、大阪の俳句―明治編3、ふらんす堂刊)。大阪俳句史研究会の手になるもので、明治時代の大阪俳人アンソロジーの一冊である。

 相島虚吼(1867−1935)。ジャーナリスト・俳人・政治家。日清戦争に記者として従軍、帰還船中で子規と知り合い、喀血した子規を神戸の病院に入院させた縁で俳句を学び、虚子らとも親交、「ホトトギス」の巻頭を飾ったこともある、と今井氏の解説にある。

 関西俳壇の基盤を築いた一人として虚吼句集が再刊の運びとなり、その推薦文を新聞人の端くれだった僕も求められたのだった。

 虚吼は大阪毎日を経て昭和日日を創刊主宰。病を得て、それを他人に譲り、大阪北郊の豊中・静雲居(現豊中市本町一丁目、大池小付近)でもっぱら句作生活に専念(昭和5年)、その「昭和日日を去って百日」の前書きのある句。

  玄関に掛けしがまゝや夏帽子

が真っ先に目に飛び込んだのだった。新聞社に何か忘れ物をしてきたような思い。自分の心境をずばり見抜かれたような気分にさせられたのである。病でやむなく去ったものの、虚吼が編集局の活気、喧騒とインクの匂いをこよなく愛していたかわが事の様にわかるのである。

 新聞社という空気が醸し出す世界は、時代や社を超えて共通するものが流れているような気がするのである。技術革新でいまやインクの匂いはなくとも、編集局の椅子に座って原稿に向うと、周りの喧騒は消え、集中力と気力が体に漲ってくる。その快い緊張が懐かしく、忘れられないのである。

    後藤新平伯逝く

  号外子落花の村に来りけり

    大正天皇崩御

  勿体なの号外雪に濡れ居たり

    大隈重信侯逝く

  冬牡丹萎む十日の寒気かな

    政友会大阪支部長当選

  新涼を覚えて家に帰りけり

 新聞人であり、政治家でもあった虚吼らしい句が並ぶ中で、意外に惹かれるのは虚吼が閑居した豊中の句をはじめとする晩年の作。時代を経ても、同じ豊中・曽根に閑居するわが身に通じるものを感じるからであろうか。

 我が家から歩いてすぐの萩の寺に虚子の撰文と虚吼の4句を刻んだ句碑(昭和7年建立)がある。

  雛の座にかちかち山の屏風かな

  登山口道に画きて教へけり

  放屁虫貯えもなく放ちけり

  飼犬を甘つたらかす炬燵かな

 晩学、浅学の僕が言及する資格はまだないが、永田耕衣氏は虚吼の句を「コッケイの妖気」と評したそうだ。句集全体に確かに滑稽の気分は横溢しており、自適の余裕も感じられる。

  犬の蚤金魚にやりて閑居かな

  麦笛の道に起伏もなかりけり

 閑寂、清澄平明、そして、記者育ちの冷静さ、観察眼、自虐も含めてのしたたかさ、虚吼翁の境地にはまだ遠く及ばないが、彼の享年六十九歳は指呼の間だし、「放屁虫貯えもなく放ちけり」ぐらいはこの僕だって得意である。

(以上)

◆「新聞人と俳句」(しんぶんじんとはいく):藤本 晉(ふじもと すすむ)◆