2012年1月のエッセイ琺瑯のカップ宇多喜代子二〇一一年三月十一日の翌朝、中国雲南省の畢さん一家から、日本にはもう住めないそうではないか、いつこちらに来てもいいよと電話があった。あちらの報道がどのようなものであったのか、ほぼ察しがついた。 雲南の畢さん(通称ビィ)は、北京で国際政治学を勉強し終え、郷里の雲南大学の研究室にいたとき、私ども稲愛好者のために、文献の収集や現地案内、極上の按摩探しなどの「世話係」を務めてくれた好漢である。 そのビィが、日本のW大学の図書館の本が見たいというので、見に来たらいいじゃないかと言っていたら、公費で勉強させてくれるチャンスがあるとかで試験を受け、それにパスして日本に来ることになった。 来たらいいじゃないかと言った手前、いわゆる身元保証役を引き受けねばならなくなる。かねてより、外国人の身元保証だけはしないほうがいいと聞いてはいたが、義を見てせざるは、というではないかと、エイヤアで引受けた。 寮で荷物を解いていたときである。セーターの中からころんと琺瑯のカップが出てきた。要らないといったのにとぶつくさ言う。聞けば、ビィが子どものときから使っていたカップで、出発前に、もって行け、行かないで母親と問答をして「いらない」ということになっていたものを、母親がこっそり突っ込んだものだという。「毎日、これで茶を飲むこと」を滞在中の遵守事項として言い渡す。 給付される学費、寮費以外のお金は中国関係の弁護士事務所のアルバイトで稼ぎ、さしたる厄介もかけず、図書館の本をしこたま読み、猛烈に難解な大論文を書き、無事卒業して雲南に帰った。琺瑯カップのおかげである。 しばらくして結婚式に来てくれと案内がきた。これまた、エイヤアで行った。日本人は鬼と心得ている大勢の中国奥地の農村の年配者に囲まれ途方にくれていたところ、ビィのお母さんが、出席者一同を鎮め、それは違うと演説をしてくれた。祝辞をいう羽目になり、日本では雪は稲の花が咲く予祝、瑞兆だと、この日、この地に五十年ぶりに降った雪のことを話した。すると、日本は稲を作っているのかと驚きの声があがり、道理であなたはわたしらと同じ顔だと、態度一変である。いつしか、今度はうちに泊まりに来てくれ、うちの田の稲はいついつ稔る、とみんなが手を握りにくる。「日本人は鬼」以後の日本を知る機会がない人たちが、まだ大勢いたということだ。エイヤアでことをなすのは怖いが、いいこともある。ビィは、いま雲南大学の准教授として、難しい経済問題と格闘している。 (以上) ◆「琺瑯のカップ」(ほうろうのかっぷ):宇多喜代子(うだ きよこ)◆ |
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