2012年2月のエッセイ節分万灯籠の思い出井浪 立葉二月三日、奈良市春日大社の節分万灯籠。俳句を詠むようになって、大和の年中行事や祭りを追っていた頃があった。若草山の山焼き、節分の春日万灯籠、二月堂のお水取りなど炎の行事には友人と誘い合って吟行していた。 中でも節分万灯籠は橋本多佳子の次の一句と共に忘れられない。 雪の日の浴身一指一趾愛し 多佳子 昭和三十八年万灯籠でこの句を詠んだ翌日、大阪回生会病院に入院、三ヶ月後の五月二十九日肝臓がんのため帰らぬ人となった。死を覚悟していたことが、同じとき詠まれた〈雪はげし書き遺すこと何ぞ多き〉に思われて、雪が降っても降らなくても、思い出さずにはいられない。 昭和五十九年、献灯の列についたとき、すぐ前に田辺聖子と“かもかのおっちゃん”を見かけ、一言二言言葉を交した。伊丹の柿衛文庫には何度も足を運び、学芸員のS氏に、レンガ造りの聖子邸や昆陽池など案内していただいた。何よりも作品のほとんどを愛読していた。柿衛文庫で毎年開催されている鬼貫顕彰俳句会、ある年現代俳句協会から和田悟朗氏が選者として参加されていたので、私も出席した。その折田辺聖子展が開催されていたことなど、万灯会が近付くと懐しい。 奈良が好きで毎月のように奈良にいらして吟行を共にしていた、さいたま市のK子さん。万灯会にはご主人といらしたが、行事が終わって灯籠の火が消えた真暗な杉木立の参道を歩き、お宿の奈良ホテルで句会をした。そのK子さんも亡くなられたが、句はしっかりと私の記憶に遺されている。 再会の鑽火を分かつ万灯会 恵 子 駐車場計画が持ち上ったのは昭和五十二年。奈良の自然を愛する人は、「何故?」とみんな反対していたが、今は観光バスで駐車場はいつもいっぱいだ。あの年は雪が降った。前日から降りはじめ、当日になっても止まず、雪の万灯会になった。私は一人で雪しまくなかを、何度も転びそうになりながら足を運んだ。運ばずにはいられなかったからだ。献灯の申し込みをして灯籠に灯を入れる。あたりがまだ明るく、好きな紋様の灯籠を探すことが出来た。 橋本多佳子の好きだったという鹿の紋様は、一般の人が灯を入れる回廊で見付けられず、特別に拝観させていただけるようになって、本殿前で参拝したとき、正面の右側の一灯に見付けたときはうれしかった。 雪の日の万灯籠、灯籠に帳られた白紙を透かしてほのかな炎が浮かび上がる。中庭では篝火が焚かれ、炎に照らされた松の雪、直会殿で舞楽が奉納されたことなど、昨日のことのようだ。明りを映した疎水の水が、なまめかしく揺れていた。その疎水に蓋がされたのはいつだったか…。今年も万灯籠に雪は降るだろうかと今から楽しみにしている。 鹿紋様しんしんと透き万燈会 立 葉 雪のまま暮れ万燈の灯さるる 杉の秀にオリオン星座万燈会 東日本大震災、まさかの原発事故が起きた。阪神淡路大震災で罹災され、奈良の大学官舎に入居された和田悟朗氏『時空のささやき』に収録されている一節を紹介したい。 奈良へ来て数日後、節分の夜、近くの春日大社の万燈籠に詣でた。久しぶりに吸う澄みきった寒冷の空気、それまでの塵埃に充ちた神戸の混乱から逸れて、心身ともに清められた気分になった。ぼくはすぐに立ち直れると思った。 春日大社では毎朝、被災地への祈りが捧げられている。 (以上) ◆「節分万灯籠の思い出」(せつぶんまんとうろうのおもいで): |
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