2012年5月のエッセイ聖五月出口 善子人を表現するのに、ずぶの素人の直感に、かえって素晴らしいものがあると痛感させられた。テレビ番組で、一人の有名人(俳優やら歌手など)の写真を通行人に見せて「あなたはこの人をどう思いますか」と質問するコーナーがある。すると、老若男女を問わず、みんながユニークな譬喩をもってリアルに表現する。揶揄、冒涜、褒め言葉いろいろあるが、なかでも舌を巻いたのは、俳優(いやこの人の場合はやはり役者だろう)藤原竜也についての若い女性二人の感想であった。 「ああ、この人。まっさらな消しゴム、それもまだ粉のついているような……」 清純さ、清潔感、世俗に冒されず、むしろ世の穢れを弾き返すような凛とした雰囲気、そういった印象をすべてひっくるめた人物描写を、実に解り易い言葉に置きかえている。 的確で、かつ新鮮だ。私などのヴォキャブラリーにはないラフな発想で理屈抜きに楽しい。俳句もこのように作りたいものだと、つくづく考えさせられた。 さて、五月は、一年の中でも最も生命感が躍動する季節。しかも、この文章がネットに流れる頃は、ゴールデン・ウイークの真っ最中。この時期の海外旅行者は過去最高になるだろうと新聞も報じていた。出無精の私ですら、劇団・新感線の舞台「シレンとラギ」(主演は藤原竜也)や「ロザンのお笑い課外授業」(宇治原・菅の両氏は私の中学の後輩・もっとも向こうさんは御存知無いが)の予約券を手に入れて、浮き浮きしているのに、自宅に籠もって、インターネットなど開いている俳人など、あまり想像できない。視聴率は低い季節と予測しつつも、それでも真面目に取り組んでいるつもり。 ところで、四月末から五月にかけての祭日の名称は、よくテレビのクイズにされる。私ども昭和生まれの記憶では、四月二十九日はもともとは天皇誕生日であった。それが平成の世となり、必然的に「みどりの日」に変遷した。ところが平成も十八年経ってから、突如「昭和の日」とやらに変更され「みどりの日」は五月四日に収まった。 男らが乳母車押し昭和の日 善子 この俳句は、昭和も前半に生まれた者の視点からの、明らかに今風の世相に対する揶揄である。しかし、こんな風景も、平成二十四年ともなれば、珍しくもないごくありふれた日常的光景になってしまった。もっといえば、男性が抱きバンドで胸に赤子を抱き、よちよち歩きの子の手を引いて、地下鉄に乗っていたりする。どこにも母親らしき姿がないこともしばしば。けなげなものだ。明治生まれの父が見たら、なんというだろう。 私の母は五月生まれで、「母の日」は私の誕生日に合わせて作られたんや、なんぞと口走ってはしゃいでいた。「母の日」は祝日ではないが、これも以前は日が固定されていたのに、いつのまにか五月の第二日曜になっている。「成人の日」などと同じく、便宜上日曜日に移したのだろう。 五月生まれを誇っていた母は、自分の大好きだった五月に逝った。 掘ってすぐ埋められる穴聖五月 善子 五月の季語で私が一番好きなのは「聖五月」。「聖母月」では宗教色が出過ぎて、クリスチャンではない私が、露悪的に扱ったりしては失礼というものだろう。掲句の「穴」も、ガスや水道の配線工事などで掘った穴とも読めるだろうが、私の中では「墓穴」である。人を葬るのに、墓穴を掘って棺ごと埋めた古い日本のしきたりの方が、私は好きである。西洋では今でも土葬が多いのではなかろうか。今日ではもう無理な注文だろうが、成ろう事なら私の柩は土の穴にそのまま埋めてほしい。レールに乗せて、ゴロゴロと灼熱の釜に送り込まれるのだけは、できればカンベンして頂きたい。 (以上) ◆「聖五月」(せいごがつ): 出口 善子(でぐち よしこ)◆ |
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