2013年6月のエッセイ蚕はなぜ桑しか食べないのだろうか桑田 和子<蚕はなぜ桑しか食べないか> 誰もが当たり前と思ってきた命題に最初に取り組んだのは、京都高等蚕糸学校(現・京都工芸繊維大学)の教授、浜村保次だった。 浜村は、東大農学部、農芸化学者・鈴木梅太郎門を出て、京大から京都工芸繊維大学・繊維学部に赴任した。ここで初めて本格的な養蚕というものを見たのである。そして<蚕はなぜ桑しか食べないのか>という子供のような疑問をもった。他の教授からは一笑に付されたのであるが、しかし、蚕の好む食性を解明できれば、養蚕の革命となるし、学問としても面白いのではないかと考え、この蚕革命にとりつかれてしまった。蚕は春夏秋の年3回飼育されていた。もし、人工飼料ができれば、蚕の飼育を自由にコントロール出来ると考えたのである。 浜村はまず、桑の葉から香りの成分を抽出し、この香りの成分をしみ込ませた濾紙と抽出滓の中間に蚕を置いてみたところ、蚕はすべて濾紙の方に集まった。「何だ、こんなに簡単なことか」と思ったのであるが、この香りは蚕を誘引はするが、噛もうとはしない。桑の葉には誘引と同時に噛む行為を起こさせる物質がある事が解ってきた。さらに追及し、砂糖、セルロース、フラボン、ビタミン等を寒天に含ませ蚕の食性をみるのだが、だんだん迷路に入ってゆく。それはまるで犯人は誰かと追及する探偵小説のようであった。 浜村を中心とする研究グループが化学物質を突き止め、人工飼料飼育を達成したのは20数年後の昭和35年(1960)である。さらに、良い繭がとれるか、実際に養蚕農家に使ってもらえるか、コストダウンは出来るか、人工飼料に生える黴のこと等、問題は山積していた。そして桑葉飼育に変らぬ立派な繭作りに成功したのはさらに8年後のことである。解明へのきっかけは小さな出来事だったり、つまらぬ失敗が糧になったりしたことから生まれた。浜村らの約28年におよぶ営々とした研究の果てに、漸くにして養蚕革命は大成功を見たのだが、折しも日本にも登場していた強敵の化学繊維ポリエステルの全盛時代に入ろうとしていた。何とも皮肉なことではあった。 しかし、その功績は日本はおろか外国にまで届き、偉大な細菌学者の名を冠したルイ・パスツール賞を受賞したことでも浜村の研究者としての凄さが知れよう。パスツールは晩年微粒子病で死んでゆく蚕の救済にも取り組み微粒子病を防止する道を開いた。 この浜村保次教授こそ私の恩師であり、私自身もこの研究の末端に加えていただいた。師のもとには常に他の教授や学生の訪問が絶えなかった。それは偏に師の人柄を慕ってのことだった。晩年は謡や俳句と俳画を嗜んだ。私の俳句と俳画への傾倒は実はここからきている。師は、昭和60年(1985)4月4日に他界されたが、その学問への真摯さ、誠実でひたむきな生き方、人へのやさしさ、それらは今も私の心の中に生き続け、生きる指針となっている。 (以上) ◆「蚕はなぜ桑しか食べないのだろうか」(かいこはなぜくわしかたべないのだろうか): 桑田 和子(くわた・かずこ)◆ |
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