2013年9月のエッセイ思えば成る高橋 将夫「為せば成る、為さねば成らぬ何事も成らぬは人の為さぬなりけり」は有名な米沢藩藩主上杉鷹山の名言。この精神論は、出来ないと言う前に先ず行動することの大切さを言っているが、そのためには先ずやろうとする意思が問題になる。その意思について少し違う角度から眺めてみたいと思う。 人の行為は脳の生理的な反応(神経細胞の興奮と刺激伝達物質の放出)で説明できるという。我々の行動は脳の情報システム(脳神経のネットワーク)の生理的反応の結果にすぎないというわけである。確かに、脳のどの部分がどういう機能をつかさどっているのかは、脳造影法の進歩でかなり詳細に解明されている。この脳の情報システムは、最初は遺伝子により構築され、その後は学習により発達していく。人はこうして構築された脳の情報システムの生理的反応により行動しているだけだというわけだが、そこには意思(心)が大きく関与していると私は思っている。 ガスを消し忘れたのではないかと気になって、確認に行く時がある。大方はボケがきたかなと、笑い話で済まされる。ところが、そのような心配に繰返し襲われ、その度に確認に行かずにおれないという人がいる。脅迫性障害という。例えば、ガスは消えているとわかっていても、確認に行かずにおれないところが特徴である。そういう人については、脳の情報システムの一部に異常があることが脳造影で確認されている。精神の異常というより、脳の情報システムの問題なのである。ところが、この人が自分の意思で確認行動以外のことに関心を移し、確認行動をしなくて済むようになったとき、脳の情報システムは正常にもどっているという。つまり、脳の情報システムは意思により変えることができるということなのである。心の置き方で変わるということである。 俳句は精神の風景。もし意思による脳の生理的活動の変化の結果、精神の位相が変るとしたら、今は見えない景も、そのうち見えて来るのではないか。俳句においても、大切なのは「何かを見ようとする」意思だということになる。 車のハンドルには遊びがある。車を運転する人なら大抵は知っているが、ハンドルには動かしても車が方向を変えるように作用しない範囲がある。これがないと運転手のわずかな手の動きで車の方向が変わるため、直進する時に運転手はロボットのようにならなければならない。また、逆に車輪の動きがダイレクトに運転手の手に伝わりうっとうしいことになる。いってみれば、車輪と運転手の間の潤滑油みたいなものである。もっとも、最近ではラック&ピニオンというのがあり、これには遊びがないそうである。 そこで遊びの話に入る。梁塵秘抄に「遊びをせんとや生まれけん 戯れせんとや生まれけん」とある。「自由に遊べばよい。さまざまに遊べばよい。時に人を食ってなど、さように遊べばよい。」とは先師岡井省二の言葉。そうは言っても俳句は精神の風景。先ずは精神をそういう状態に置けるかどうかが分かれ目。ここにも前記の意思が係わってくる。「思えば成る」である。 (以上) ◆「思えば成る」(おもえばなる):高橋 将夫(たかはし まさお)◆ |
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