2014年4月のエッセイ微風のオデオン広場花谷 清ミュンヘンの春の訪れは遅い。旧市街の中心部は歩行者専用ゾーンだ。市庁舎に面するマリーエン広場には、行き交う人びとに混じって大道芸を囲む人の輪ができ始める。この広場の東・西・南・北のそれぞれの地区に、歴史的な建築物や庭園が散在している。たとえば北へ向かって歩くと、街路の縦長の隙間から、行く手にティアティーナ教会の黄色い尖塔がみえる。オデオン広場の傍にあるバロック様式の美しい教会の塔だ。 その日曜日は、オデオン広場の東側にあるレジデンツの庭園へゆくつもりだった。途中のカフェに席を得て珈琲を注文した。犬を散歩させている人や腕を組んで歩く老夫婦を眺めていると、おだやかな時が流れる。ほどなく、ひとりの少女がテーブルを順に回っているのに気づいた。座っている客の耳元に何かを囁いているようだ。どの客たちもみな首を横に振って否定的に応じていた。ぼくのテーブルに来たとき、差し出した手を仰向けに受ける〈物乞いの仕草〉で、お金を無心した。小銭をあげようか・・・と少し迷った。が、「否」と答えた。身なりはルンペンには見えない。未だ恥ずかしさを知る前の齢におもえた。かつて写真でみたアンネフランクを幼くしたような風貌といえば想像していただけるだろうか。結局その店の誰からもお金を恵んで貰えないまま、少女は街のどこかへ消えていった。 人からお金を無心される瞬間は、大袈裟にいえば試練である。渡すべきか否か、にわかには判断できず迷う。しかし自由意志に任されているだけ、ひったくり・スリに比べてましと云えよう。ぼくの場合は、物乞いへお金を渡さないのを常としてきた。今回の少女へもその原則に従ったのだ。珈琲を飲み終えたのちも、本を読んだりして休んだ。それからすこし北のオデオン広場の傍のティアティーナ教会へ向かった。 ちょうどミサが終わったところだった。荘重な側柱が支えるドームの天蓋から光が差し込んでいる。吹き抜けの白い内装の礼拝堂が見渡せた。その一瞬、ぼくは自分の目を疑った。さっきの少女が、喜々として誇らしげに、入口に近いところにある大きな献金箱にコインを一枚ずつ落としていた。紛れもなく、小一時間前、カフェのテーブルに来て、ぼくにお金を無心した子だった。 人びとが教会で献金しているのを識っていて、子供なりにそれを良い行為と考え、お金を捧げたかったからに違いない。その少女の天真爛漫な行為にふれて、いくつかの問いが脳裏に閃いた。物乞いとは何か。喜捨とは何か。そもそも社会におけるお金の役割とは。もし少女に数枚のコインを渡していたら、それらは、世の中をどのように巡ることになるのだろう。礼拝堂をあとにして、ぼくはオデオン広場を東へゆっくり横切った。レジデンツの庭園から吹いてくる微風が、両頬に向かってくるのを感じながら――。 (以上) ◆「微風のオデオン広場」(びふうのおでおんひろば):花谷 清(はなたに きよし)◆ |
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