2014年8月のエッセイ
杏と王様
鈴鹿呂仁
今の季節は、果して梅雨なのか夏なのか毎日はっきりしない日々が続いている。そんな或る日のこと、私は深い微睡の中へと落ちていった。
この物語は、杏という少女の話である。杏は、14才になったばかりの好奇心の強い女の子で、誰にも打ち明けていない秘密にしていることがある。これは、杏にとって一つの楽しみでもある。今日も学校から帰るとさっそく家をあとにした。何時ものように薔薇の館を右に曲がると、夏草が生い茂る場所があり、そこには山百合が群生している。これが目印だ。杏は、背が低く小柄であるので、一ケ所だけ潜り込めるところがある。身体を屈みながらどれくらい歩いたのだろう。時間が分らない程、杏は夢中なのだ。すると、まもなく道は開け杏の好きな森へと続くのである。森を進んでいくと、杏は一つの処に立ち止ると肩から下げているポシェットからノートとペンを取り出し頻りに手を動かしている。杏が見ているのは、大きな木の根っ子のあたりで、そこにはたくさんの茸が生えていて、実にカラフルな帽子を被ったような可愛い茸で、杏にはまるで踊っているように感じられた。
赤帽子黄帽子をどる茸たち 杏
杏は、俳句を作るのが大好きなのだ。この森は、杏にとって俳句の材料がたくさんあるので、楽しい楽しい場所なのだ。
杏が、ノートから顔を上げると、森の木洩れ日の辺りから、やや小太りで白い髭をたくわえた一人の小父さんがやってきた。こんな所で人と会うのは初めてのことで杏は、びっくりしている。
小父さんは、杏に向かって優しく尋ねた。
「君は、今何をしているのかね。」
杏は、秘密の場所を見つけたことや自分が今何に夢中になっているのかを、話した。
すると、小父さんは微笑みながら、
「君のノートをぜひ見せてもらいたい。いいかな。」
杏は、少し躊躇ったが小父さんの優しい笑顔にノートを見せることにした。
「なるほど…、よく勉強しているね。俳句が好きなんだね。だけど、俳句をするなら歳時記をよく読んだ方が良いよ。『茸』は、秋の季語だから今の季節に合ったものにすることだね。それに、俳句で説明することは、余りしない方がいいだろう。こんな句があるよ。」
梅雨きのこ不思議の国の親衛隊 珀眉
「少し難しいが状況の切り取り方、つまり季語との取り合わせに工夫をしているね。」
そして、杏は小父さんの案内で、森の中を歩いていくことにした。しばらくすると、どこから来たのか、蝶々が杏の頭の上を何か言いたそうに行ったり来たり飛んでいる。杏は、ノートを開いた。
蝶々が私をどこかへ誘ってる 杏
それを見て、小父さんは、
「『蝶』は、春の季語だから、夏の蝶とか揚羽蝶にすると良い。そして、中八になっているから中七にすること。五七五の定型を守ることは、大切なことだよ。こんな句があるよ。」
揚羽蝶森のカフェよりの伝言 公子
「そうだ、もう少し歩くとおいしいジュースが飲める森のテラスがあるよ。」
二人は、その場所に着くと切り株の椅子に腰掛け休憩することにした。
しばらくすると、小父さんは杏に向かって語りはじめた。
「実は、私はね。この森の王様なのだよ。この森は俳句王国といってね、少し先にお城があって、そこにはたくさんの人達が俳句を作って楽しく暮らしている。君も是非、この国へ来るといいよ。」
王様は、語り終わると森の奥へと消えていった。この森の国では、朝の太陽が昇っていた。杏は、王様ともっと話がしたくて、何度も何度も「王様」「王様」と呼んでいた。
現実の世界では、ほんの20分から30分の時間しか経過していないことを、杏は知らない。
郭公へわたしの谺返しけり 菜摘子
微睡の中にいた私は、すでに覚醒をはじめている。この王国が、掌中にあることを期待しながら……。
(以上)
◆「杏と王様」:鈴鹿呂仁(すずか・ろじん)◆