2014年12月のエッセイ
二つほどのこと
豊田都峰
今考えている一つに、対象からどれだけ離れる事がよいのか、ということがある。
対象を見る。そのままでは本質が見えない。本質を見るには、離れて見詰めることが必要であるが、どれだけの離れかということ。
最近、自然の異常気象や社会世相を取り扱った作品によく出合うが、あまりにもそのままというか、写実的すぎるというか、写生的というか、そんな作品には前書きが必要というか、共通認識の前提が必要というか、俳句の独立性から考えて、問題があると考えている。たとえば次のような作品はどう考えるべきか。
短夜の赤子よもつともつと泣け 宇多喜代子
は異常な世相の姿から生まれたのか、それとも自然災害からか、または戦争の状態からか。しかし、そんな詮索は必要ではない。
赤子は泣く、しかしこの作品では「短夜」に設定されていて、「もつともつと」と表現されている点に注目すれば、短い命の必死の訴えが聞こえてくる。
原子炉の裡の真闇に雪とどかぬ 奥坂まや
「原子炉」という空間には「雪」という通常のものなどは受け入れられない。いわば自然ではなく、人間の造った特殊の空間だということ。
災害を離れ、放射能災害を離れて、これらの作品があると考える。離れてはいるが、本質的が把握されて、ふたたび対象に戻って詠われている。
離れるには空間的だけではなく、時間的なことも必要である。事態発生時は飛びつくような関心により、いろいろ作品も生まれるが、それらは自然淘汰されてゆくことになる。落ち着いてこそものが見えてくる。
手がありて鉄棒つかむ原爆忌 奥坂まや
も合わせてメモしておく。
二つ目は、私的なことだが、「私の里山の地図作り」ということ。
人間と自然の適合的空間・時間が里山であるが、そこに私という、一つの美的指向を加えて、里山・川野・林・道・橋・集落など勝手に作図している。ために作品などの依頼を受けると、今までの地図にさらに景物を加えながら、楽しんで句作りに励むといったところ。残念ながら、里山図はまた私の内にあるだけ。作品はその小出しというところ。だから、私の里山は絶えず進化することになって、どこまでも確定することがないかも知れないが、略図でも書いておくべきか。ふと昔、宝島が、秘密の島を書いて楽しんだ時期もあったが、いまは平和な里山の姿をあれこれ楽しんでいる。
(以上)
◆「二つほどのこと」:豊田都峰(とよだ・とほう)◆