関西現代俳句協会

2016年3月のエッセイ

イチローと多作多捨

木村オサム

 42歳の現在も大リーグで活躍するイチロー。2015年のシーズン終了時点で、日米通算4213本の安打を打っている。大リーグでも過去に4000本打った選手はたった2人のみという。

 すでに引退した松井秀喜のようなパワーヒッターと違ってイチローはどちらかというと、内野安打を中心にコツコツとヒットを積み重ねる一見地味なタイプである。派手さはないが、熟練した職人のような風情が私には昔から好ましく思え、地元のオリックス出身ということもあり、ずっと応援してきた。

 イチローは2013年8月、日米通算4000安打を達成した時、「四千本の結果自体を誇れる自分ではない。」と述べ、こう続けた。

「4千のヒットを打つには、8千回以上は悔しい思いをしてきている。それに常に自分なりに向き合ってきたことの事実はある。誇れるとしたらそこだと思う。」

 これはまさに俳句の修行に通じることではないだろうか。

 俳句では「多作多捨」ということがよく言われる。とにかくたくさん作って、駄目な句はどんどん捨てていく。それが俳句上達の良き手段であると。自分なりにそれを実践してきたつもりだが、どうもいくら作っても一向に俳句が上手にならない。

 そして、先ほどのイチローの発言から、自分が多作多捨ということを十分に理解していなかったことに気づかされた。もちろん一流の俳人でもそんなに名句ばかりが詠めるわけではない。むしろそれなりの句が詠めるのはヒットを打つことよりもはるかに低い確率であろう。多く詠み続け、捨てていくことに異論はない。要は、やみくもにたくさん作って捨てればいいということではなく、捨て方が問題なのだ。

 捨てる時にその句のどこがダメかということに常に向き合った上で、推敲出来るものは推敲し、それでも結局駄目なら執着せず次の句をまた詠めばいいのである。

 現在私の所属する結社の支部句会は、諸事情で出席者が十人ほどに減っており、時間がたっぷりあるので、一句一句に対して、なぜその句を採ったかということに加え、なぜ採らなかったかということについても意見を述べ合う機会が多い。

 通常の句会ではなぜ採らなかったかについては、指導者だけが触れて終わる場合が多いのではないだろうか。採らなかった理由を考えることは句のどこがダメかということを知る上で、非常に良い勉強になる。あのイチローでさえ、凡打の理由にしっかり向き合うことによって、ヒットをここまで放ち続けることができたのだ。私のような凡人など、何をか言わんやである。

 イチローは、今後について尋ねられ、こう答えている。

「失敗を重ねていって、たまにうまくいって、ということの繰り返しだと思う。それを続けていく。」

 私も山のように凡句を詠み続け、凡句に終わった理由を考え、たまにましな句を詠む確率がほんの少しでも上がっていけばいいと思うのである。

(以上)

◆「イチローと多作多捨」:木村オサム(きむら・おさむ)◆

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