2017年10月のエッセイ句集のすすめ外山安龍 関西現代俳句協会では毎年、12月の第1土曜日に「句集祭り」が行われる。会員が刊行した句集を紹介し祝う会である。 中島敦の小説「山月記」で、詩人になり損ない虎となった主人公・李陵は、今でも自分の詩が都の風流人士の机におかれる夢を見ると言って嘆く。世に認められたいということにかくも執着するのも、また人間の業なのだと教えてくれる小説である。 私が句集をすすめるのはそのような大それたことではない。俳句を続けてきた人生の一シーンとして句集をもつことはよいことだと思うからだ。 俳句を詠むことなど考えもみなかった時分には雲散霧消していたであろう、自分の感じたり思ったりしていたことを、移ろう季節の言葉に合せて句に詠むようになった。その句を持って句座に臨む。誰かに自分の句を取ってもらえる。感想も言ってもらえる。大げさに言うと、人の心に風を起こす。自分も人の句にふれ感受性を磨いていく。俳誌に自分の句が少しすまして載る。俳句大会や新聞等に投句して選ばれる。認められたと喜ぶ。 等々、年々繰り返し続けていく。それはマンネリもあるかもしれないが、俳句など知らなかったときの自分と比べて豊かな時間を過ごしていると言えよう。 句集を出すということはそれらの活動を全部ふまえた上で、それらの時間や記憶を1冊の本に残すということである。そして句集を読み返すたびにそれらのことが昨日のことのようによみがえるということである。 句集を作る過程は前述した俳句にかかわる活動とは全く違う作業である。句座は例えていうと青果市場であり、他の句と見比べてどれだけ自分の句が生き生きしているかが問われる。句集は自分の手作りの庭である。どのようにすれば、その句がその句らしく引き立つか、1句ずつ植えていく。季節とともに花が変わるように句も変わっていく。ぱっと開いた頁の、見開き4句のうち主役と脇の句を決め奥行を作る。次の頁への余韻や切り替えをどうするか等考えていったらきりがない。 勿論、そのためには持ち駒の句が多くなければできない。また自分の仕掛けどおり読者に受けとめてもらえるかはわからない。一人相撲かも知れない。しかしながら、子供がデゴを夢中で組み立てるように無心になれること請け合いである。 そのほか表紙はどうするか、本の大きさはどうするか。近頃は文庫本サイズも増えている。今までいただいた句集を見直し、あれこれ考える。そう何度も出版できるものではないので、ぎりぎりまで粘って考えたいと思う。 とにかく贈った人には読んでほしいと思う。何か工夫をと考え、私は、句集の最後に脚注集を付けることにした。 縷々述べたが、そうやって出来た句集は世界にひとつだけの花である。あちらの庭でもこちらの庭でも花が咲いているように、毎年誰かが句集を出してほしいと思っている。 (以上) ◆「句集のすすめ」:外山安龍(とやま・あんりゅう)◆ |
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