2018年7月のエッセイ一人がため曾根 毅 阿弥陀如来の誓願は、親鸞一人のためだと言い切る。一見、独善的とも受け取れるが、深い懺悔と感謝の込められた言葉。ここから連想する、俳句型式についての私の思いを述べてみたい。 俳句定型は見事に個別の意思や事情を作品化してしまう装置だ。時には全く本人の意思に反して作品化してしまうことさえある。読者の側に立てば、作者の意図を超えたところに読みを着地させることも。 『歎異抄』には他にも、人を千人殺せば浄土に往生できるという親鸞の問い掛けに対して、弟子の唯円が、千人はおろか一人も殺せませんと答える場面がある。どんなことも思う存分できるなら、千人も殺せようし一人も殺せようが、逆に殺さないからといって善意があるからとは限らない。殺すまいと思って一人も千人も殺すこともあるはずだという問答だ。このことを踏まえて私は、「一人がためなり」という言葉は、個別の存在をありのままに認めることと同時に、全くそれを認めないことの表裏であると受け止めたい。 個とは、私性を具現化することよりもむしろ消失する方向に向かうもの、姿かたちを含め何ものにも影響されないエネルギーというようなものではないかと考えてみる。現在の俳句に引き付けて語るとすれば、俳句には季語がなければならないというような約束事に始まり、観念的にならず具象で表現すると成功しやすいというテクニックや、散文表現を嫌うといった構えは全て捨て去り、ポエジーをも疑ってみる視点である。 詩人が詩人として当然に、暗黙の裡というよりもっと自然に飾らず明白なところに持っている創作の根拠、衝動とは何か。所謂戦後俳句に負荷された運動のための意思でもなければ、主義や存在をアピールするための志でもない。一つのカテゴリーや文学運動の中に並べられても、その範疇に収まりきらないところの根拠を探りたい。無目的だと言わなくても無目的だとしか言いようのない衝動。それは個人が表現行為を行う上で当然に備わっているはずのエネルギーでなければならない。肉体の動きで記述され、または発声されるための神経の働き、存在に伴う細胞単位の電子の動きといったものが実は思考に先立つという見方もあるだろう。 詩は意思が働かなければ成立しないだろうか。何かを発しようとする意思が詩の妨げになる例もある。目的や意思が働かなくても、人が感受することのできる詩表現への志向が、最短定型詩である俳句ならではの魅力であり、強さだと言ってもおかしくはない。 子規も虚子も芭蕉のことも忘れて、もしくは全く無視して定型に没頭する。そんな俳句の捉え方があっても面白い。季語を知らなければ俳句は書けないか、もうそんな問いはナンセンスでしかない。古くはもじりや駄洒落を織り交ぜたものを評価する基軸もあった。俳句は芭蕉でも子規でも虚子でもなく定型だとする見方が本筋でないとも限らない。史観で捉えてみても、長いスケールで測れば、少なくとも正岡子規以降の百数十年くらいは、同じ一点に見えるはずだ。 (以上) ◆「一人がため」:曾根毅(そね・つよし)◆ |
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