関西現代俳句協会

2019年10月のエッセイ

雅号の薦め

吉田星子

 小学校5年の頃、大阪住吉区の父の社宅は三十数坪の住宅でしたが、庭、南東の隅に芒が生えて居り、梅雨が明けると鬱蒼とは行かないまでも、まるで塚のように盛り上っていました。この光景を

    梅雨明けて俄かに伸びた若すすき

と詠みました。これが拙作第1号でした。

 長岡京市に移り住んだ頃は、高槻駅から桂駅まで急行列車が止まらず、大山崎から長岡地域は竹林ばかり。長岡天満宮一帯の道路は雨に泥るみ、晴れに砂埃りが舞い上がると言った田舎駅でした。

 高校3生の折、父すばるが鈴鹿野風呂主宰を初め、西澤十七星ご一家を自宅にご招待。竹林を巡り、また筍加工工場を見学した後、7名での小句会を催したのがきっかけで俳句に向きあうようになりました。

 翌年から「京鹿子」誌に投句を始め、翌々年から五条通にあった尼寺・金光院での例会に参加していました。木田千女さんが2句欄に載っていた頃で、なかなか野風呂先生の選には入りませんでしたが、昭和40年の3月の例会にて

    遊び居る子らの柔髪に東風伝ふ

 と言う句を選んでいただき、すばる星とあけり星の子という意味合いの「星子」という雅号を賜り、「野風呂名づけ子五百人」の一人として、後年の記念祭にも出席しました。山口誓子のような俳人に成長せよとのご期待に応えらぬまま、社会人になった翌年に風邪をこじらせた結果長い闘病生活、1年3月もの間、職場を休むことになり、京鹿子句会とは縁の薄い年月が数十年も過ぎ去ることになりました。

 しかし、父が没した翌年から京鹿子に復帰。父が没して五年後に母も亡くなり、2006年には同人に推挙していただき、その翌年には編集部へ。京鹿子では、百ページ近い投句欄の校正作業は凡そ7人、本文欄は従来から2名でやりくりしていますので、編集長が脳梗塞に罹られ、急遽1人で毎月の俳誌を滞りなく発行しなければならないという事態の折は、その重責の重さに強い頭痛に苛まれていました。昨今は早め早めにことを進めるように努めていますので、頭痛はしませんが、原稿を集める、貯畜しておくと言う過程では、心労が無い訳でもありません。

 長々と綴って来参りましたが、掲題の雅号についてにいて述べますと、前師都峰主宰が時々薦めておられたのが雅号という隠れ蓑。

 少し大胆な句を詠んだとしても、或いは恋の句を詠んだとしても、それは本名のわたしでは無く、私とは別の名の者が詠んだのですから・・・という気安さが雅号にはあります。救いがあります。だから従来の自身の殻を破って、伸び伸びと詠め得るメリットがあると言う訓え。

 今春に詠んだ拙作

    花万朶幸せすぎて怖いほど

 これは男のわたしが女性の立場で詠んだものです。女と思わせておきながら、名乗りを男がする面白さもあります。

 来年「京鹿子」は創刊百周年を迎えます。創刊時の鈴鹿登が、野風呂、その実子・丸山家の尚が海道、前師の豊田充男は都峰、野風呂の孫にあたる現主宰は野風呂から1字、実父の鈴鹿仁を併せて「呂仁」の号。

 令和となった5月号から「私の雅号の謂れ」と言うシリーズを始めました。「曲水の宴」で使われる巴字盞に因む「巴水」の雅号。一方、好きな茶道から自らつけた「宗久」は舞踊にも長けた女人。目ぱっちりさんの「希眸」は羨ましい雅号。雅号をお持ちになった方々は、披講の席で名乗りをあげる都度、下賜された光景を反復しておられることでしょう。

(以上)

◆「雅号の薦め」:吉田星子(よしだ・せいし)◆

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