2019年11月のエッセイいまを生きる山﨑 篤令和元年10月1日、初句集『いまを生きる』を刊行しました。当結社幻俳句会(主宰 西谷剛周)では句集シリーズとして平成29年に『人間賛歌』西谷剛周著、平成30年に『あれも詩これも詩』村上和巳・春美著を刊行し、私の句集がシリーズ3となります。 「幻」の活動状況については、「現代俳句」9月号45頁に剛周氏が詳しく紹介されていますが、40人程度の小結社にして定例句会ではいつも40人弱の参加があります。といいますのは、剛周氏はとても社交的で宇多喜代子、坪内稔典、久保純夫先生とも親交があり、積極的に他結社と合同句会をするなど絶えず門戸を開き新しい風を入れるようにされているからでしょう。定例句会では辛口の意見が飛び交いますが、句会後のちょっと一杯が楽しみで剛周氏の人間性に惹かれているのではないでしょうか。幻会員には多趣味、特技を持つ人が多くおられ、総力戦でのスクラムは他の結社に負けないと自負しています。 奈良県では俳人協会が大多数を占めていますが、「運河」の茨木和生先生が奈良県俳句協会の会長を、剛周氏が事務局長を務めておられ両者の関係はすこぶる良好です。なぜこのような話を持ち出したのかといいますと、お二人は私にとって俳句の大恩人であります。 そもそも私が俳句を志したのは、斑鳩町役場に採用となり2年後の人事異動で剛周氏と同じ課に配属となり当時剛周氏は広報「いかるが」を担当されていました。広報の斑鳩歌壇・俳壇の応募者が少なかったからかどうかはわかりませんが、俳壇へ投句するようにと勧められました。最初のうちは俳句なんて全くわからなかったのですが、思いつくまま五・七・五に季語を入れただけの俳句を投句しました。結果はご承知のとおりでかなり添削されて活字となっていました。 そうこうするうちに、斑鳩には「斑鳩吟社」という俳句グループがあるので、参加してみないかと誘われ入会。そこでカルチャーショック。俳句は文語、旧仮名遣いで作るのだと教えられ、毎回数多くの添削をしていただいた記憶があります。したがって、私の俳句の基礎は文語旧仮名遣いで始まりました。一方、剛周氏は現代仮名遣いで通していましたので、これについても魅力を感じていました。それから一年ほど経ち、俳句結社「幻」に入るよう勧められ入会はするものの、鳴かず飛ばずの日々が過ぎていきました。 もう少し「斑鳩吟社」について触れておきます。入会当時は安田泰象氏が代表をされており、剛周氏は、職場の上司である教育長の安田泰象氏の人柄に憧れ、一生付き合っていきたいとの思いから俳句を始められたと聞きます。剛周氏は若いながらも斑鳩吟社の事務局を任されていて、「幻」主宰田仲了司氏も指導に来られていました。斑鳩吟社の代表が安田泰象氏から林周作氏に交代されてからは「運河」主宰の茨木和生先生が指導者として来られるようになり、私の俳句は「幻」にいて「運河」にどっぷりと浸かっていくのであります。 そのうちに句会で次の句を了司師に褒めてもらい、俳人としてのスイッチが入ったようです。 木の実降る神の涙かもしれぬ 篤 句集『いまを生きる』は定年退職を一つの節目としてまとめたものであり、編纂にあたり一句一句を読み返すたびにその時々の思い出が蘇ってきます。生き物だけでなく、風や水の動きにも命が感じられることから、万物すべての『命』をテーマとして一日一日を大切に生きていきたいとの思いから、句集名を付けたものです。そして、今に思えば私の俳句は初学の頃の<木の実降る神の涙かもしれぬ>が原点なのかもしれません。 現在、俳句界は大きく分けて現代俳句協会、俳人協会、伝統俳句協会に分かれていますが、斑鳩吟社は超結社の団体です。聖徳太子の言葉に「和を以て貴しと為す」がありますが、大正5年から欠かすことなく法隆寺子規忌を主催し今年で104回目の子規忌を開催することができたのは誇りでもあります。この法隆寺子規忌を日本人のこころのよりどころとして、この灯りを次の世代へと引き継いでいきたいと考えています。 (以上) ◆「いまを生きる」:山﨑 篤(やまざき・あつし)◆ |
当サイトへのリンクについてご自由にリンクをお張りください。バナーが必要な場合は下記の画像をお使いください。88×31のGIF形式です。 申し出ていただければ、当サイトからもリンクさせていただきます。 |