関西現代俳句協会

2020年7月のエッセイ

鶏の話

千坂希妙

   

 子供のころ、ぼくの家では裏庭に自家製の鶏小屋があって10羽ほど飼っていた。時に良い天気の日には放し飼いにした。まさに庭鳥である。彼らは思い思いの場所でミミズをほじくったり砂浴びをしたりして幸せそうであった。砂浴びの後では彼らの喉は瘤のように膨らんだ。小石やガラス片を喉のところにある砂袋に溜め込むからである。夏には換羽して羽抜鳥になる。見た目にはみすぼらしいがあれは鶏の衣替えであって鶏自身は少しも惨めではない。抜ける尻からすぐに新しい羽が新芽のように生えてくる。惨めなのは人間に食われる時である。

 カシワ、すなわち鶏肉は当時ご馳走だった。親戚が来る時など特別な日に近所から料理を得意とする人が来て鶏を絞めた。絞めると言っても首をちょん切るのである。肥えたのを選び、どぶの上で左手で脚をつかんで逆さに持ち上げる。鶏は暴れるがすかさず右手の柳刃包丁で首を刎ねる。鮮血が黒いどぶ川の一所を染める。鶏頭が泥に半分埋まり、鶏冠が落椿のように横たわる。鶏の本体はまだ身悶えている。頭が無くてもほんのしばらくは生きているのだ。やがてそれも収まり,用意してあった熱湯に浸す。それから羽をむしり抜く。藁を燃やし、うぶ毛を焼き尽くす。それからいよいよ解体である。両足を切り落とし、手羽に腿に内臓に胸肉にと取り分ける。雌ならば産卵管の近くにまだ殻なしだが明日以降生むであろうピンポン玉ほどの卵から、続いて金柑ほど、パチンコ玉ほどとだんだん小さく卵のタマゴが順番に並ぶ。それは少年のぼくにはまるでシャボン玉のようにも思えたのだった。

 その夜は鶏鍋を囲んでの宴会になる。ぼくも末席に連なるが鶏が可哀そうでおいしく食べられなかったものだ。 その後長じてぼくは主にアジア各地を放浪した。そして世界にはまだまだ日本人の知らない品種の鶏がいることを知った。さらに鶏の調理の仕方も地域によってずいぶん違うことを知った。興味深かったのはバングラディッシュの地方都市チッタゴンでの光景、バザールの路上で鶏を捌いて売る商人がいたが、まず生きたままの鶏の肛門にナイフを入れて切り口を作り、一気にペロンと首筋まで引ん剝くのである。あっという間に桃色の肉塊がまな板に乗る。羽はもとより皮ごと剥がされると鶏は呆れるほど小さくなるのだった。

 日本人が鶏やその卵を食べるようになったのは主に江戸時代からだという。喜多川森貞の残した風俗誌「森貞謾(漫)稿」によると天秤棒に卵を担いだ行商人がいて、「たあまご、たあまご」と声をかけて売り歩いたそうな。当時卵は稀少で値も高かった。森貞の記録によればかけ蕎麦が「十六文」、卵は「廿文」(にじゅうもん)であった。一文を20円として計算すると卵1個400円である。当時は松茸よりも高かったのである。江戸時代の鶏は赤色野鶏種で今日の養鶏のようには多く生まなかった。ぼくの句に「鶏は今朝も産卵お正月」というのがあるが、現代の白色レグホンは品種改良されて中には1年365日、休みなく産むのがいたりする。働き方改革もヘチマもあったものでない。

(以上)

◆「鶏の話」:千坂希妙(ちさか・きみょう)◆

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