関西現代俳句協会

2021年11月のエッセイ

季語の周辺

津野洋子

神迎え

 私共の町内に「やすらい祭」といふ奇祭で有名な今宮神社がある。毎年11月1日は神迎えで賑はう。まだ明けきらぬ午前5時頃から戸外にはざわざわと人の気配がし始める。

 私も其の日は早く起きて出掛けるのだ。神様をお迎えするべく参道は掃き清められ水も打ってある。境内には百にも余る灯明が早朝の風に揺れてをり其のゆらめきで神様は今お還りになったのだと納得する。

 祢宜も巫女も準備に余念がない。お詣りの人々も1ケ月の神様の留守が終ったので安堵してゐるやうである。私も神前に進んで掌を合せる。考へて見ると欧米の人達はどんな場所でもすぐ祈りを捧げる。オリンピックでも競技の直前に十字を切ってゐる姿をよく見る。神と共にあるという思ひが徹底しているのであらう。

 私は神前で遠い昔、私達夫婦の挙式もこの神前であったことを思い出していた。もちろんその頃は俳句とは御縁がなく「神無月」も「神在月」も知らず偶たま神様の在ます11月3日を選んだだけのことで、来し方をふり返り無事に長寿をいただいていることに感謝すばかりである。

 帰り道は門前のあぶり餅の店でお茶をいただく。この茶店は嘉永の頃から続いている老舗で京都の観光ポスターにも再々登場する美しい媼がとり仕切っている。お詣りが殖えたことを店の人も喜んでいるやうだ。
「ほんまに達者に働かしてもろて神さんのお陰どす」とはこの媼の口癖である。

 私も子供達のお宮詣、孫達の受験祈願と随分お世話になったものだ。それも苦しい時の神頼みばかりであったやうで申し訳ないやうな気がする。

  

石蕗の花

    南國の石蕗の黄色のあたたかく    高橋淡路女

 毎年11月になるとある友達が煎茶のお茶席に誘って下さる。売茶本流のお家元雲祥寺である。このお茶会は、本席のお煎茶はもちろん結構なのだが、副席の塩茶手前が楽しみなのである。本席とは異なりぐっとくだけた雰囲気で見事に紅葉したお庭を前に広いお座敷での手前である。

 しかしくだけているとは申せ誰も正客になるのは好まない。ある年お互いに譲り合っていてとうとう大学教授のある男性に押しつけてしまった。

 この時に頂くお菓子は熱つあつの酒饅頭でこれが塩茶とよく合ふ。塩茶手前というのは焙じ茶に少し塩を入れて特別の茶筅で点てるお茶である。塩茶と云っても塩味はあるかなし少しおおぶりの茶碗でいただく。

 正客の教授は「誠に無調法で」とおっしゃりながらお役目を果して下さった。日頃忙しい主婦にはこんなひとときがとても嬉しい。庭の石蕗の花の黄色があざやかであった。

 私にとって京都は四季の美しい郷である。ここで俳句のある生活が出来るのも良き師にめぐり合ったお陰である。感謝をしつつこれからもひろく季語を見つけ、自然のうつろいを詠むことができれば幸である。

(以上)

◆「季語の周辺」:津野洋子(つの・ようこ)◆

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