関西現代俳句協会

2021年12月のエッセイ

ふる里の「男爵いも」

宮武孝幸

 私のふる里は、北海道でも一、二を競う美味しいじゃがいも「男爵」の産地、えぞ富士(羊蹄山)の麓である。

 令和最初の国賓として来日した米国大統領を、首相が六本木の炉端焼き店でもてなした最初の一品が「じゃがバター」であった。真偽のほどは解らないが、わがふる里のじゃがいも「男爵」であったと言われている。 この地方は昼夜の寒暖の差が大きく、内陸性の気候と豊かな大地の恵みが相まって、ほこほことした食感の高品質のじゃがいもが作られている。その品質のよさは関東圏では人気が高く、幻のいもともいわれている。
 北海道は日本一の生産量を誇るじゃがいも大国であり、様々な品種が栽培されているが、その代表的なものが「男爵」である。

 日本へはオランダ人が長崎に持ち込んだのが最初で「ジャガタラいも」と呼ばれ、鑑賞用として扱われすぐには食用としては普及しなかった。本格的な栽培が北海道へ移ることになったのは明治以降になってからである。北海道の気候、風土に適合し、大々的な栽培が定着した今ではこの広大なじゃがいも畑は北海道の代表的な風景となっている。

 昭和20年、田舎の小さな学校の新学期が始まると、突如として校舎一部分が軍隊と200人程の朝鮮人の労働者らしき人々(徴用工)の宿舎として使用されることになった。徴用工らしき人たちは学校近くの山間の奥の山腹にトンネルのような大きい洞窟を掘っていたようだが、子供等には分からなかった。
 春の畑耕しが始まると秋に拾い残したじゃがいもが出てくる。直ぐリヤカーいっぱいになる。拾ったいもを隊の炊事班のところへ届けると、大いに喜んでくれみんなから可愛がられるようになった。 何時からか徴用工の人たちが散歩がてらわが家に寄るようになった。祖母は塩茹でしたじゃがいもや、焦げの握りめしを作っては上げていた。しかし、決して大勢が押しかけて来ることは無くどこかで誰かが調整していると言う。
 8月15日敗戦が決まると村は騒然とした。軍人は直ぐいなくなり、働いていた人々は転々ばらばらに町へ向かって移動を始めた。民家に押し入って金品を略奪する者も少なくなかった。わが家にも毎日何人もの人が来たが被害を加える者は全く無く、皆礼を言って帰る人だった。リーダーからの指示だった事が後で分かった。

 今でも北海道産の「男爵いも」を見ると少年だった頃のこの事を思い出す。そして小学校5年生の国語の教科書に載っていた次のような詩を思い出す。

   じゃがいもをつくりに       百田 宗治

  じゃがいもをみると、ぼくは、北海道のいなかを思い出す。 
  みわたすかぎりのじゃがいも畑のうねの向こうに、
  いつもぽっかりとういていたえぞ富士。
  あの山のすがたが、小さいころのことを、
  いろいろ思いださせる。

     (一部分省略)

  日本のこくぐらは、北海道だといいます。
  さっぽろに農学校をつくられたクラーク先生もおっしゃった。
  「青年よ、大きな望みをもて。」
  ぼくは、大きくなったら、どうしても北海道へいこうと思う。
  北海道へじゃがいもつくりにいこう。
  おかあさんをおつれして、
  デンマークの農業のことを勉強して、
  ぼくは、いい農夫になろう。

    どこからも見える蝦夷富士藷の花   高橋抱石(葦牙)

    どこまでも真っ直ぐな道藷の花     孝幸

(以上)

◆「ふる里の『男爵いも』」:宮武孝幸(みやたけ・たかゆき)◆

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