2022年3月のエッセイ安満遺跡公園星野早苗もしも古いもの全てが遺跡になるなら、どこを掘っても遺跡だらけになる。幸いなことに長い年月のうちに、燃えたり流されたり転用されたりしてほとんどの遺跡は消え去ってしまう。偶然工事で発見されても大抵迷惑がられ、調査発掘の後すぐ埋め戻されるだろう。おかげで私たちは、その上に遠慮なく家を建てたり道を作ったりして暮らしてきた。ところが、大阪府高槻市の安満遺跡はこの反対の道を辿っている。 安満遺跡公園は元京大農場で広大な果樹園だった。研究棟などの建物は昭和3年から6年にかけて建設されたものだが、建設工事の際に発見された遺跡のために老朽化しても建て替えできず、2016年に木津市に移転した。跡地利用については、ガンバ大阪の練習グランドやスタジアムに、という話もあったようだが、結局は何もない芝生の市民公園になった。それが安満遺跡公園である。 安満遺跡と言っても、弥生時代の環濠集落の跡があったというだけである。珍しい遺物や立派な副葬品が出たわけではない。ただ、漆塗りの高坏や簪が出土しているので、祭祀や宴会はあったかもしれない。水稲の他、カラムシ(苧麻)を栽培していた跡がある。しかし、そんな物より、大昔の洪水で埋まったらしい水田の中に弥生人の足型が残っていたのだ。環濠集落から水田に続く幅広の小さな足跡。弥生人はどんな人たちだったのかと想像が膨らむ。 瓶などの土器も出ているが、芸術的な縄文土器と比べるとどうしても見劣りがしてしまう。しかし、弥生土器の方が実用性は高い。予備校時代にK先生に教わったことだが、弥生土器は青銅器時代と結びつくそうだ。 稲作時代にも石包丁で稲の穂先だけを刈り取っていた時代がある。青銅器を使い始めて稲の根元から刈れるようになると、縄を綯う、筵を編むなど藁の有効利用がはじまった。藁を刻んで土に混ぜると丈夫な壁土もできる。その土で窯を作ると高温に耐える窯ができ、薄くて丈夫な弥生式土器が出来上がった、というわけだ。縄文時代の「野焼き」から藁や土を被せて焼く「覆い焼き」に変わったというのが通説だが、私はK先生の説を信奉している。いずれにしても稲藁と弥生土器のつながりは深い。頼りない条痕紋、ぞんざいに付けた櫛描き紋がいかにも大量生産品である。 村には犬もいた。縄文犬と区別して弥生犬というらしい。弓矢が出土しているので猟犬だろうと思ったが、調べてみると弥生犬は食用だった。水稲栽培と共に犬を食べる文化も渡ってきたのだろう。 安満遺跡は標高125メートルの安満山の麓にあり、環濠に囲まれた居住区と、その外に広がる水田の生産域、墓域がコンパクトにまとまっている。暮域には石室も墓石もない。村人は皆平等に同じ墓に葬られたらしく、集団墓の土まんじゅうが並んでいるだけである。 赤米を手刈りの株や冬ざるる 早苗 (以上) ◆「安満遺跡公園」:星野早苗(ほしの・さなえ)◆ |
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