関西現代俳句協会

2024年2月のエッセイ

(はい)とは文芸のピアニシモ

穂積一平

 (はい)とは文芸のピアニシモ。遠くほそく細くとおい、とはずかたり。
 ピアニシモというのは小さな音ではない。ホールのすみずみにまでとどく弱音。ホールのすみにいて聞こえない弱音などというものがあるとすれば、そこにはすでに音楽はない。
 巨大なホールのどこであっても、あくまで「弱く」もはっきりと聞こえるからこそ、その「弱さ」が強いからこそ、フォルテにもフォルテシモにも意味の根底を与えることができる。だからこそ名匠はピアニシモに意を尽くす。
 ピッチのやわらかな手触りに、弦のかすかなふれあいに。そこにこそピアニシモの極意がある。

 俳は「わざおぎ」とも読む。ひとを楽しませる技だという。

  月の夜に猛きめざめのピアニシモ   一平

 そうした小さな記憶をいくつか……。

 小学校のころだから昭和3、40年代、阪急宝塚線のある駅に母に連れられて降りた。
 ろうけつ染めの先生といって、母の女学校時代の恩師が住んでいて、定期的に同級生が集まる女たちの会合があった。
 建て込んだ家々の隙間を(まがき)という古めかしいことばがぴったりの垣根が住居を隔てていた。裏口に竹の戸があったような気がする。
 染色現場は記憶にないが、はた織機の置いてある狭い部屋を見せてもらったことがある。飛行機かなにかの複雑なコックピットにように見えた。
 やがて集まった女たちは、にこやかにわたしを見て笑いかける。ひとりで部屋に待つことになった。
 別室からにぎやかな声が聞こえる。小さな坪庭の草木の緑。狭い路地を走り抜ける自転車の音。
 わたしは、阪急百貨店で買ってもらったミニカーを箱からだして、畳の縁を道路に見立ててひとり遊んでいた。
 最近、溝口健二の「近松物語」を見ていたとき、ヒロインおさんの母親役をやっていた浪速千栄子を見て、このろうけつ染めの先生を思い出した。

  時はかげ籬に菊の朝じめり

 中学校のころようやくエレキギターを手に入れて1日中弾いていた。
ずいぶん大きな音で近所迷惑だったようだが、それを知ったのもずいぶん後のこと。
 ただ仲間がいなかった。60年代後半から70年代のロックに心酔してガチャガチャとやっていたが、バンドを組みたくてしかたがなかったので、大胆にも雑誌のギタリスト募集という欄を見て応募した。
 こういう雑誌の募集に中学生というのはめったにない、というか、ほとんどない。だいいち長髪がロック・ミュージックのしるしだった当時、わたしはまだ丸坊主頭だった。ただ年齢について記してあるわけでも髪型について制限があるわけでもないので、適当な募集に応募したのだと思う。
 場所は寺田町だった。夕方、黄昏時というよりも、逢魔が時というほうがふさわしい、薄暗い時間。わたしは生まれてはじめて環状線に乗って、案の定、髪を肩までのばして異様に細いジーンズを履いた青年に会うことになった。
 向こうは「なんだ、こいつ」と思ったかもしれないが、わたしも「なんだ、こいつ」と思ったことだろう。連れられて青年の家に行く。部屋はアパートの2階にあった。狭い4畳半の和室に腰を下ろして、見回すとレコードやポスターで壁も襖も窓も埋め尽くされている。ちょっと誘拐されたような気分。犯人は三ツ矢サイダーを出した。
 ギターを持って行ったはずだが弾きもしなかった。どういうギタリストを必要としているのかと青年は説明したが、わたしにはいまひとつ呑み込めなかった。
 薄暗い夕方の空、寺田町駅前のさびれた改札口、狭い和室と居丈高なポスター、めまいのようにいまも漂い続ける青年の顔。午後8時、わたしはようやくなにかから解放されて家路についた。頭がくらくらしていた。その後、青年からの連絡は一度もない。

  炭酸水飲んで溶けゆく夏の夜

(以上)

◆「俳とは文芸のピアニシモ」:穂積一平(ほづみ・いっぺい)◆

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