関西現代俳句協会

2024年3月のエッセイ

藍の晩年

若森京子

 去年の10月、一人の俳句仲間が69歳の若さで他界した。
 彼は俳句ばかりでなく色々な創作活動に才能を発揮し全ての人達に優しい言葉をかけ愛されていた事が判った。
 残り時間の少なくなってゆく私にとって、遣る瀬無い思いに駆られた。
 秩父海原大会の後、私は帰宅したが、その続きに山形行きのグループの一人で(彼は大会は欠席)集合場所に来ないので電話をしても既読にならず、私は大会から帰ってその事を知ったのだが、彼の消息を知るのに少し時間が掛かった。
 山形に行く前日は電話で元気そうに話したとの事。
 結局家庭の複雑さから孤独死の様だった。
 死因も未聞のままだ。
 句会で「芭蕉の梵我一如」を熱く語っていた彼の魂は一緒にみちのくの旅をしたに違いない。

    桜散るこの世あの世の間のその世  柳生正名

 自分にとって桜は「この世」そのままでなく 「あの世」でもなく、そのあわいに咲く花、そしてそれが散る「その世」こそ自分が俳句を描こうとしている世界そのものと感じると彼は言っている。
 詩の世界は現実から離れての心の遊び、感性の世界であるのは当然だが、現実の世界に足がしっかりと着地していなければ、すなわち現実の世界の確かさがあっての俳句の世界だと確信している。
 若い頃、金子兜太先生から「日常生活をしっかりして自由に書きなさい」と言われた事が耳に残っている。
 先生からの信書には必ず「夫君によろしく」とあった。

 俳句を始めて55年目になるが、その内44年間を金子兜太先生の弟子であった幸せを思う。
 思えば俳句に助けられた事が余りにも多い。
 詩嚢を肥やし、思い通りの言葉を掴めた時の喜びは、宇宙の中で星を掴んだ様な得体の知れない自己陶酔に浸る。

 長い闘病生活においても、実生活における苦悩、長い人生には色々あったが、その時少し世界を移行するテクニックを覚えた私は、ストレスの病にもかかる事なく歩んできた様な気がする。
 俳友達との交流に命の灯を繋いできたと言えばオーバーだろうか。

 産婦人科医であった主人は女性の精神的な病いの相談相手をしていたので、私の外での活動に協力的で理解があった事は大変有難かった。
 しかし主人は診療を外部からくる役職つまり仕事のみで、他の事務的な事、従業員の事、銀行関係は全て私の仕事だった。
 人手の足りない時はベビーの沐浴、夜勤の電話番もしていた。
 家を留守にするとそれだけ仕事が山積みに待っていた。
 若さで全て乗り越えてきた様に思う。
 二つの世界の切り替えが上手くいったのかも知れない。

  誰もが通る老々介護に私も平成29年頃から入った。
 丁度コロナ期でもあり外部の俳句活動も休止状態の頃だった。
 コロナ前に関西現代俳句協会副会長職も2期終えていたし、三田文化協会副会長も12年間勤めたが終えていた。
 そして25年間勤めた三田俳句協会会長も、良き人にバトンタッチ出来て、ほっとしていた。
 主人は軽い脳梗塞を患い、リハビリを兼ねて入退院を繰り返した。
 金子先生も平成30年2月20日に逝去され、コロナ期でもあり、写真等を整理している時に出版社から勧められ、主人も背を押してくれ、第7句集『臘梅』が出版出来た。

 入退院を繰り返す彼は自分の寿命を悟っていたのか全ての治療を拒否し、家で静かに最後は暮らしたいと在宅介護を強く希望したので私も覚悟を決めて、介護士、リハビリ師、家族に助けられて精一杯頑張ったつもりだ。
 最後の1ヶ月半は食物が喉を通らず点滴のみで頑張る彼はいつも感謝の掌を合わせる仕草をしていた。
 62年間連れ添った伴侶の日に日に衰え、死に向かう姿を見るに忍び難い日々の連続だったが、俳句は欠稿する事なくいつも世界を切り替えて書いていた。
 今から思えば現実からの逃避だったのかも知れない。

  老々介護縄文土器を愛でる如
  慈雨の夜ミカドアゲハの君の息
  君の骨格湯舟に浮かべ夏怒濤
  筆談やみるみる鰯雲のよう
  蓑虫や「最期は家で」と逝った人

 令和3年7月25日未明、88歳7ヶ月の生涯を、私一人が看取る中で閉じた。
 死の尊厳の静寂の中で外が明ける迄二人で居た。

 主人の死後、病院にて私自身の肉体は限界にきていると診断を受けたのに不思議にも自覚症状が余りなく、海馬に螢がいっぴきいたかの様に正直、数日間の記憶がおぼつかないのだ。
 コロナも終息に近づき、ふと孤独の淵に引き込まれてゆく感覚の中、ありがたい事に新聞の選者、LINE句会、リモート句会、通信句会、リアル句会と隙間の無い程のスケジュールの日々を送っている。

  死後のやさしさ濡縁にいて小春
  忘れるうれしさ野菊の道は濡れている

 最近のニュースを観れば戦争で多くの子供達の悲惨な姿に胸を痛めている。
 平和を一番願っておられた兜太先生がおられたらどう思われるかしらといつも思う。  

 8歳で敗戦を体験し、戦争中の悲愴な恐怖感、尾道市向島に疎開していた時の淋しさ、そして8月6日の広島の真赤な空の記憶は今でも鮮やかに甦る昨今だ。

 地球上も、自然界も、人類も変化してゆく混沌とした現在、優しい後輩達に囲まれて、せめて俳句と言う言葉の小さな平和の温もりを感じながら余世を過ごしたいと願っている。

  一人暮らし今日は山椒魚だった
  熟柿吸う述懐という柔い力
  寿命という軽いのりもの百千鳥
  露草や涙もろくて藍の晩年

(以上)

◆「藍の晩年」:若森京子(わかもり・きょうこ)◆

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